終わりと始まり

人を食い物にする人の、なんと多いことか。

人は人に対して寛容でない、ということは、自分の中で薄々分かっていたことであるが、誰かの歩んだ道を通るとき、その人に対して敬意を払わない人間がいる。このようなことを平気でやる人間は、開かれた空間であるインターネットに生息するのは向いていない。特に、出処を洗い出すようになった、昨今のSNSでは。

何かを始めるとき、何かを行うとき、人はそれなりに対価を払わなければ、やる気を見出すことができない。私が津々浦々とここに文字を書き続けるために、それなりの対価を支払ったように。そして、それは必ずしも、金銭とは限らない。心であったり、時間であったり、身体的な部分であったり、人はそれなりに、何かしらの対価を払っている。触れ合うために手を差し伸べる行為もまた、対価であり、価値である。そして、それが受け入れられることで、「何かに触れ合えた」自分を得る。そのときに、その「何か」に敬意を払えなければ、その人は成長の機会をドブに捨てたようなものだ。

もちろん、全てのものが等価交換で回っているとも、対価を払うことで回っているとも、思わない。それで世の中が回りきっていれば、犯罪は起こらないし、夢を見ることもないだろう。「何かに触れ合えた自分」、は、その「何か」に受け入れられて初めて生まれるものであって、受け入れられなければ、「許されなかった自分」が生まれるのだ。そのときにどんな選択をするかが鍵になる。怒り狂うか、泣き縋るかが大半だが、世の中には、その辺りの感情が上手く表現できない人間もいる。私も、その一人だ。

ここに何を書き記すべきか、あまり考えずに始めてしまったものだから、何かとっ散らかった思想や思考があっても、どうか気にしないでほしい。変に完璧主義なところがあるので、私も気にしないようにしなくては。その日の記録とか、このような考えごとの羅列だとか、気兼ねなく書き記すことができれば、私も安心できるかもしれない。そう思って、ぽんぽんと登録作業を進めていったのを思い出した。レイアウトも変わるかもしれないが、それもまた一興ということで、楽しんでいただければ幸甚である。

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